体験的音声学~言葉の音のことさまざま

言語の音声を中心に、いろいろ考えます

鍵か蟹かの鼻濁音

 ガ行鼻音、いわゆる鼻濁音が、本来あった方言で消失しつつあることはつとに有名です。

 

 このガ行鼻音は、声門閉鎖音と同じように、かつてはアナウンサーや歌手に対して、厳しく指導されていました。

 

 現在では、NHKにおいても、全国的な傾向に鑑みてか、ガ行鼻音のないアナウンサーも見られます。

 

 音声が一つなくなると、その方言の全体的な体系にも変化を生じざるを得ません。

 

 例えば、茨城県や栃木県を含む東北地方では、語頭や、複合語構成要素の単語の語頭を除くと、カ行とタ行は濁音になるという特徴がありました。そして、本来のガ行とダ行は、上記と同じ位置ではそれぞれ、ガ行鼻音[ŋ]と、鼻音を含むダ行[nd]とでした。つまり、ガ行鼻音なしで「いばらぎ」と聞こえたら、それは「いばらき」だったのです。

 

 それが、ガ行鼻音の消失により、[ibaraŋi]と[ibaragi]の違いがなくなりました。こうなると、理論的には、「いばらき」という場合は、「語中では濁る」という方言の特徴自体が変更されるか、反対に、濁った形で落ち着かせるしかありません。おそらく前者に変わったのだと思われますが、ガ行鼻音のなくなった世代からは、ある世代の「いばらき」の発音は「いばらぎ」としか聞こえないことでしょう。そうすると、茨城は一体「いばらぎ」なのか「いばらき」なのかという疑問も生じてくるでしょう。

 

 北海道で面白いことを知った機会がありました。中学生の生徒には鼻濁音がありません。彼らは、私が「鍵」と言ったのか「蟹」と言ったのか、区別をつけるのが難しいようでした。

 

 いつか、まだ世間で鼻濁音の消失が騒がれていたころ、テレビで、もともと鼻濁音のない地方の年配の方が、「鼻濁音よりドイツ語の発音のほうが楽だ」と言っていたのを記憶しています。しかし、ドイツ語には同じ音がれっきとして存在し、例えばEngel(天使)を[εŋel] と言わずに [εŋgel]と言ったら笑われます。

 

 鼻濁音の消失は、それが存在していた地域からすれば、比較的大きな現象だったと言えるでしょう。